バンコク

クロントイ スラム、
スラムのともしび、プラティープ先生がおられるところ


1992年2月



チャオプラヤ川岸のバンコック港と高速道路に挟まれた地域はクロントイと呼ばれている。タイの東北部から流入した人や定職のない人はここクロントイやスアンプルー、チュアパーンといったスラムに入り込むことになる。

バンコクでは150万人(1992年)がスラムに住んでいるといわれている。ちなみにバンコクの人口は750万人。かなりの人がスラムに住んでいることになる。


夕方、クロントイ スラムの入口で立ち止まってしまった。わたしが近来になく真剣であることは、眉間に皺を寄せていることからもわかるでしょう。でも、その写真は割愛。

これから中に入ろうかと逡巡しているのだ。スラムにはいっていく人がわたしをねめつける。視線が当てられるたびに、体を小さくしている。
ついに決心した。
中に入る。湿地帯のうえにバラック小屋が軒を接している。家の前には板を渡してある。板はピカピカだ。人は裸足で歩く。どんよりとした水溜りのうえに渡された板は、人間の足の油で磨きたてられたのだ。幅1メートルの板だ。

家の前には住人が出て、夕涼みをしている。家の中は茣蓙が敷かれている。壁にはピンアップ写真が飾ってある。

白黒のテレビが甲高い声を発している。冷蔵庫がある家もある。これらの家庭は月収3000バーツ(2万円弱)くらいだろう。バンコクだから最低水準の収入といっても、これくらいは稼げるのである。

1食10バーツのラーメンをすすり、飯を食べて生活している。テレビや冷蔵庫を買うために、中国人の高利貸から金を借りる。1日1%の利子。年間365%の利子とべらぼうである。払えなくなれば、親父はテレビを返さず、娘を中国人に売って返済する。

「日本人か?」
家の前でべったりと座り込んだ若い女性が声をかける。隣の太ったおばさんがにこにこと見上げる。

「アジアにかかる虹」から。
プラティープ先生と秦氏の結婚式

「アジアにかかる虹」から。クロントイ スラム
「そう、日本人だ」
冬だとはいえ、汗がべっとりとまとわりつく。タオルで首筋をふく。恐怖感はない。それよりも、家庭の暖かさが漂っている。むしろ、住みたいなという雰囲気だ。だって、テレビもある、冷蔵庫だって。

タバコを笊にいれた物売りがやっとすれ違う。タバコはばら売り。ここでは何もかも分けて売る。水もそうだ。もちろん、水道設備はないから、大瓶で水を買うのである。スラムの外に住む中国人が売りにくる。
板の通路を歩いていく。
子供が母親から水をかけてもらい、体を洗ってもらっている。麻薬で頭をやられた30歳くらいの男が上半身裸で両手を上げたり、下げたりしている。間断なく続けている。
「あいつはいつもこうなんだ」
雑貨屋のおばさんがわたしに言う。小さな間口の店である。

アイスクリームまで売っている。周囲を裸足の子供たちが走り回っている。パンにアイスクリームを挟み、食べている子供もいる。

あとでマクドナルドに寄り、アイスクリームとハンバーガーを注文した。肉を捨て、そこにアイスクリームを挟んで食べてみた。これが微妙な味だ。忘れられない味である。

実は、わたしはスラムの灯といわれているプラティープ先生のファンなのである。彼女はクロントイ スラムに生まれ、16歳のときからスラムに住む子供たちの教育に一生を捧げている。


あるメッセージの中で、先生は次のように言っている。「日本は第二次世界大戦のあと、くじけずに問題に取り組んできた模範的な国です。創造的な面から物事を見ようとする人間は、子供の教科書の中ですら、このことを語りついでいくでしょう」

「アジアにかかる虹」から。クロントイ スラム
プラティープ先生はスラムの天使と呼ばれているが、「アジアの砂の一粒でしかない」と、自分は言う。彼女は1978年にアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞している。翌年、1979年にはタイの王女様が受賞している。

タイ人はプラティープ先生と夫の秦氏のことをよく知っている。「あのプラティープ先生の日本人のご主人」という言い方を例外なくする。









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    バンコクポスト。1992年5月7日




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