メーホンソン

首長族、ビルマ人難民キャンプをゆく

 1993年5月15日〜16日




首長族

ビルマ人難民キャンプ

山に登っていくと、空港が見える。
家々は空港のそばにあるだけ。
山間の赤茶けた畑の間を抜けると、一車線の道路が続いた。山の突き当たりで緑いっぱいの谷に入る。底まで百メートルはあり、視界が遮られ細い道路が曲りくねって続いていた。

眉氏はドア・ロックを確認した。チェンマイからすでに三時間を走破し、ゲリラが出没する地域に入った。細く開けた窓から冷えた空気が入ってきた。濃緑色の木々の葉から発せられた粉によるのか、目をしばたいた。ダッシュ・ボードを開ける。銃を取り出す。パキスタンとアフガニスタンの国境で製造されたトカレフ。バンコクなら、いとも簡単に入手できる。

前後に走駆する車両はなかった。数輌の車両と前後して走った方が得策かもしれない。前の車両がゲリラに停車を命じられれば、彼の車両も巻き添えを喰うことになる。ひとりで殺られるのか。複数なのか。死ぬ時に仲間がいるか、いないかの違いのみ。緊張でステアリングを握る手が白くなる。
「同じことなのだ」
 
前方から目を離さない。出発に際し、ガールフレンドから細々とした注意を受けた。メーホンソンへ行く場合はヨーロッパ車で訪れること。日本車だと小金持ちの企業経営者だと思われ、襲撃される危険が大きい。政府関係者が乗車するベンツならば、襲ったあと報復を考えると、ゲリラは見逃すだろうと。宿泊すべきホテル、ガイドの名前、捕えられた場合に迅速に解決するための高額ドル紙幣、チェックポイントでゲリラ側兵士に渡す多数の一ドル札の用意など、細かい指示を受けた。






チェンマイ
タイ第二の都市。

中央に麻薬王、クンサの邸宅がある。



メーホンソン
タイ北部。ビルマとの国境に位置している。山岳民族を尋ねる旅の起点。静かな、緑の多い町である。

ビルマ人の難民収容所は山の間にひっそりと存在している。そこを抜ければ、麻薬王クンサの支配する地域。メーホンソンをぶらぶらしていると、クンサ兵士のところに行かないかという声がかかる。



首長族

道が開けたのは太陽が沈み、熱気が緑の木々の中に吸い込まれたころであった。ここは遥かヒマラヤまで続くジャングルの入口、そしてタイ軍に守られた要塞。町には霧がでていた。

アスファルトで舗装された道路の脇にはタイ国際航空、バンコク航空の事務所が現れ通りすぎていった。平屋にはめ込まれたガラス戸にタイ主要都市への路線図が張りつけてある。人口一万人に満たない町並みに不釣合だ。

銀行の支店が現れるとベンツは速度を落とした。隣りの五階建ホテルにはサイアム・ホテルと車寄せの上に看板がでている。駐車場の奥に慎重に駐車すると、大型のアタッシュ・ケースひとつでカウンターに向かった。

 本名でホテルにチェックインするほど初心ではなかった。タナカの偽名を使う。部屋に入り冷房のスイッチを全開にすると、体を風に晒す。 

眉氏は空腹に襲われていた。アジア・ハイウエイを北上してから、腹に詰め込んだのはチェンマイで手に入れたコーヒーとハンバーガーだけであった。最近、ファースト・フードの店ができたのは幸運だった。汚い屋台の前にベンツを止めて、油っぽい汁ソバを胃の中にぶち込もうと考えていたところだった。

山岳地帯に位置するメーホンソンはすぐに闇が下りてくる。ホテルの隣では屋外カラオケが音響をあげている。色つきの豆電球が点滅し、陽に焼けた娘が十人ほどもぼんやりと腰を下ろしている。

その先は電灯もなく、闇が続いている。道路の脇にはバンコクからほぼ一日を費やして到着した長距離バスが客を下ろし、赤錆のでた車体を晒している。青白い月の光に照らされ、翌日の出発を待っている。東の外れにあるホテルとバス・ターミナルの周辺はすでに深夜のように人の動きはなかった。

「モーターバイク・タクシーを呼んでくれ」
ホテルのロビーに現れる。ぞんざいな口調になった。  レストランでメニューから幾つかの料理を選ぶ。タイ語、中国語、英語で印刷されている。秘境という殺し文句に惹かれてやってくる観光客。ビルマ人との蜜貿易で暴利を得ている商人を相手にしているレストランである。

タイ・ビールを喉に流し込みながら、ステーキとサラダをあわせて注文した。ステーキといっても、ここでは水牛のそれがテーブルに供される。ネズミの焼き肉も冒険家を気取る老年の旅行者にうけている。 ほてった体に冷たい液体が染みわたっていく。
「こんにちは!」

山岳民族の出身らしい娘だ。陽に焼け、頬骨が突き出た娘が氷を皿に入れてきた。ビールに小さな塊を投げ込むと、眉氏はズボンのポケットから小さな包みを取り出した。
クルンテープ(天使の都、バンコク)で買ったイヤリングだ。とっておけ」
 娘は顔を赤くしながら、ありがとうとタイ語で掠れた声をだした。後退りをすると、短くした髪を揺らせながら恥ずかしそうに仲間の後ろに隠れた。制服のエプロン・スカートからのぞく足が華奢だ。
「あの娘に気があるのか?  まだ十五歳だ。あんたなら二万で売る」
「タイ・バーツだな」

 マネジャーはそうだとウインクした。六万円もしない。あんたは日本人だが、ガールフレンド様の口利きだから元値でいい。他の外国人ならば四倍はふっかける。乾いた口調だ。
「まだ、男をしらねえ」
 家でメイドでも何でも好きなように仕込める。日本の女じゃそうはいかなねえだろ。男は金色の指輪を鈍く光らせながら声を出さずに笑った。

 彼女を自由にしてやってもいいではないかと、眉氏は一瞬の間考えた。いけない。哀れみをこの地域に持ち込んではいけない。ウエイトレスは日銭が入る。その分だけ恵まれている。山岳民族出身でチェンマイやバンコクで体を売っている娘はたくさんいる。

首長族の村
未舗装の道をかなり橋らなければならない。ゲートがあり、立入り禁止地帯となっている。



ビルマ人難民キャンプ

「これからバンコク航空のオフィスでパーティがあるんだ。行くか?」
 端整な顔に髭をはやし、髪を短く撫でつけている。王都で流行っている髪形である。マネジャーはひとりで話した。
「バンコクからメーホンソンに航空路の直行便が開設され、十年たった。その記念パーティだ。それまではチェンマイ空港でジェット機からプロペラ機に乗り換えなければならなかった。バスだとチェンマイから九時間かかったよ。今では日本人も来る。首長族を見物にな」
女性が首につけている金色の輪を数え、首の長さを誇張した写真を撮って満足する輩だ。

「パーティにはビジネスマンも来るのか?」
 眉氏は気のないそぶりで言った。男の答えを待ち、目が一点に止まっている。コップを握る指先が赤くなった。
「ここにはビジネスマンなんて一種類しかいねえよ。あんたの思っているのはどんなのか知らねえが」

 町の中心にバンコク航空の事務所がある。裏手は屋根だけが設けられ、ガレージに使用されたり、簡単なテーブルが置かれると食堂になったりもする。

 パーティは始まっていた。日本人はいない。バンコク航空に勤務している女性からタイ・ビールを注いでもらうと、テーブルの端に席を占めた。タイで行われるパーティは招待された者だけが参加できるという堅苦しさはない。招待された者の友達、その友達も大手を振って参加できる。これこそ熱帯の人々の寛容さだ。「明日、わたしはバンコクに帰ってしまうの。サヨナラ・パーティ……」
「就航十周年のパーティではなかったのか」
「それもあるわね」

 大学をでて数年しかすぎていないのか、若々しいほどに英語をエネルギッシュに話した。中国の血が混じっているのだろう。白い肌がまぶしかった。丸い顔。人懐こい雰囲気。料理を参加者に取り分けるかいがいしさ。
「メーホンソンは楽しい?」
 地上職をしているという女性は耳元に口を寄せて囁く。眉氏のワイシャツを捲りあげた腕には蚊がいくつも血を吸い始めていた。

「タナカさーん、パーティはタイ人が入れ代わり立ち代わりやってくるだけで面白くないよ。もっと楽しいところに行こう」
マネジャーが囁く。


翌朝、午前六時に目を覚ました。
シャワーの水はまだ冷たく、何度バルブを捻っても温水はでてこなかった。昨夜の酒精が眠気と一緒に吹き飛んでいく。
 ジーンズに白いシャツ、背中にはナップ・ザックを掛ける。ロビーは照明が落ちている。ホテルの従業員がカウンターの中で熟睡しているのを見届けると、足音を消して外にでた。昨夜のうちに、貴重品の旅券、VISAとアメックスのカードはセイフティ・ボックスに預けた。ポケットにはタイ人のIDカードを忍ばせてある。米ドルの小額紙幣は護身用だ。命を守るには緑色の一ドル札が五枚もあればいい。

タイ政府は山岳民族にタイの国民であることを証明するIDカードを発行している。この地域でタイ、ミャンマー、ラオス、中国との国境が存在するのは地図の上だけである。彼らは勝手気ままにこれらの国を行き来している。タイ領内に十年間住んでいると役場の窓口でぼそっと呟くだけで、政府はIDカードを発行してくれる。それを闇市場で売れば、子孫の代まで遊んで暮らせるだけの金が入ってくる。北朝鮮から脱出した家族も時々闇市場に顔を出す。

 山岳民族は現金収入が少ない。山麓に栽培した生姜や綿の実でさえ、バンコクの市場の五十分の一の値段でしか中国系タイ人の仲介人に売れない。仲介人はバンコクの中華街で印刷され、運ばれてきた二日遅れの華字紙を弄び、爪楊枝をくわえながら汗の染みた野菜を買い叩いていく。

ガールフレンドが手配したIDカードで、ここから先はタイ人となる。山岳民族のIDカードを斡旋してくれる店はメーホンソンに住んでいればいくつもみつけることができる。それも早朝の市場で買い物をし、夜は屋台で人々と飲み喰いをして、仲間として認められたあとのことだ。観光客にもそんな話が持ち込まれるが、決まって偽物である。IDカードの写真を張り変えるのはバンコク、中華街の路地をいくつも曲がり、行き止まりだと思った先にまた路地が続く。五百バーツも払えば上手く処理してくれる。

眉氏は低い軒下の体を寄せながら歩いた。道は三叉路に分かれた。炊事を始めたのか煙りが緑のジャングルの中から立ち上ぼっていた。《ガイド》と英語で看板のある店に入る。
「待っていた」
 カレン族の血が多く流れている若い男は笑顔をみせた。頬骨のでた顔が陽に焼けている。
「コーヒーを飲むか?」
「いらん、すぐに行ってくれ」

難民キャンプ
ビルマから逃れてきた人のキャンプが国境地帯に置かれている。

なかなか入ることができない地域だ。子供たちは屈託なく遊んでいた。



メーホンソンの市場

「ところであんたは何ものなんだ? いろいろなルートから丁重に扱えと連絡が入っている」
「レディからかい?」
「兄さん、もう腹の探り合いは止めにしようぜ。あんただって運転手と二人だけでここまで来られたからには、いろいろなところに保険をかけてきたのだろうに。そうでもしなきゃ、あんたはもう埋められているよ」

「まあ、いい。お前さんは大物らしい。だがな、あんたが動けるのはここまでだ。これ以上、北にはいけない」
高原に咲くケシの畑に到達するためには、モーター・バイクで数日間北上しなければならない。赤茶けた道路を走ると、突然、谷の底にピンクや白のケシの花が展開する。黒い作業着に籠を背負った女性は腰を屈め、楽しそうに話をしながら摘んでいる。ケシから阿片に精製する工場はバラック小屋にすぎない。タイとの国境付近か、タイ領内が選ばれる。CIAの空からの査察を恐れ、数か月毎に熱帯のジャングルで場所を変えるという。

メーホンソンに戻ると正午を過ぎていた。盆地は直射日光と湿気でうだっていた。木々の緑色の葉は水分を使い果たし、疲れていた。ホテルの従業員は代わっていたが、居眠りは続いていた。汗で体中に湿疹が現れる。毛穴にまで入った土ぼこりをシャワーと石鹸で削ぎ落とす。新しいワイシャツとズボンに代えると、ホテルのレストランでチキン・カレーを楽しんだ。喉が渇きビールを欲したが、中国茶だけで我慢した。これからバンコクに戻るまで運転をしなければならない。ジェット機のバンコク行き直行便ならば、ビールを味わい昼寝をしている間に、熱帯のこの国の王都まで戻れるのに。不満がでそうになるのを、辛うじて抑えた。

メーホンソン空港は、タイ王国政府が北から侵入してくる共産主義者を迎え撃つための軍事基地として設営した。民間人が白い粉の密輸を目こぼししてもらうために、タイ国境警備隊に献上するヘロインは僅かな量だと言われている。東南アジアでは軍の暗黙の了解なくして阿片を扱えない。タイでは司令官特別扱いの荷物として、軍用機でシャム湾に面したウタバオ基地へと運ばれると囁かれている。

その先は華僑の手で船舶に積載され台湾か香港まで運ばれる。代金はマネー・ロンダリングされ、荷物は米国に向かう。


メーホンソンからチェンマイへの帰途では警官に停車を命じられることはなかった。警官はミャンマーの反政府主義者が徘徊することや素人がアヘンを運ぶことを警戒している。取引で捕らわれるのは小口の仲介人だけである。構造的にそれらに関わりあっている華僑や軍人の名が表にでることはない。

 太平洋戦争の末期、日本兵が徒歩でビルマから敗走した道でもある。タイの人懐こさと笑顔の中に紛れ込み、タイ娘と結婚して日本を捨てた兵士もいるのだ。それから五十年がたち、道は拡張され、アスファルトも舗かれている。

今、眉氏は普通の旅券をポケットに入れていた。日本車のトヨタやニッサンならば警官に停車を命じられ、なにがしかの賄賂を要求されることがあるだろう。ベンツやボルボは止められることはない。これらヨーロッパ車に乗るのは実業家、政治家、高級軍人や官僚と決まっている。へたに停車を命じて彼らの機嫌を損ねたら、明日から職がなくなってしまう。お前の名は?  階級は?  ベンツの後部座席でふん反り返っている男に射殺されても泣き寝入りするしかない底辺で働く男たち。

 午後七時に、チェンマイに入った。中心街のナイト・バザールに面したホテルに車をつける。まだ、太陽の光が残っていた。 

ホテルのコーヒー・ショップでは、ドイツ人らしい中年女性とタイ人のマッチョマンが指を絡ませている。四十歳を過ぎた女性は若い男と秘境への休日を終えようとしている。冷房装置から吹きでる風が女性の黒味がかったブロンドを揺らせていた。

市場
人々は笑顔いっぱいだ。彼らは楽しく生きる術を知っているのだろう。



メーホンソンの夜

ガイドたちと


翌朝午前五時、眉氏はチェンマイを出発した。田園地帯にはいつも水が豊富に流れていた。雨季のタイは豊かな緑である。道路の両側はどこも水路が続いている。その先は果てしなく水田がつながっている。インドシナ半島の他の国々との差はここにある。タイから国境を越えたラオス、カンボジャ、ベトナムの北部は道路脇に電柱一本ない。

「この分ならば、バンコクで昼食をとれるだろう」

 午後一時、ベンツはバンコクのドンムアン国際空港を左にみた。都心への高速道路に入らず左折する。市街への抜け道、カセサート大学を右にみて、北から東に向かう道路を選んだ。太陽は灼熱の光線を叩きつけている。冷房装置を最強にしたまま、韓国現代自動車のディーラーの前を通りすぎた。タイで数%にも満たない市場占有率しかないが、いずれは日本車が席巻する市場に割り込んでいくだろう。やがて韓国大使館である。広大な宮殿と見間違うほどの前庭と建物。韓国の経済力を象徴する建築物である。

バンコク中心部の東、アパートに到着したのは韓国大使館を左に見てから、更に三十分もステアリングを握り続けてからのことであった。眉氏は白くペンキを塗られた高い塀の前で車をとめた。
「着いた」
 短く、自分の国の言葉を発すると、初めて微笑を浮かべた。ガードマンが重そうに門扉を押す。太陽は乾季の終りの熱をぎらぎらと発射していた。温度計の水銀は四十二度を示している。 汗が噴き出てきた。


バンコク航空の娘さん、
パーティにて



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